更新日2017.3.2
『古代への扉』を開くために、九州王朝論は、もはや無視しては済まされない《学問のレベル》に達している。学者の皆さんが、《定説》を《定説》として維持していくためにも、九州王朝論は乗り越えねばならないハードルとなっているのである。  これからこのホーム・ページに新しい視点からの説を展開して行きたく思うが、皆様にお読み頂き、徹底ご批判頂いて、『古代への扉』を開く一助として頂ければ幸いである。













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 《古代史の学会》では、この《奈良盆地に生まれた勢力》が、『好太王碑』に記された《朝鮮半島に進出した倭の勢力》であり、《400年代に南朝・宋に貢献した『倭の五王』》であり、『日本書紀』に記された》朝鮮半島に関わり、白村江で唐と新羅の連合軍と戦って敗れ、半島から一切手を引いた権力主体》であると見る見解が《定説》となっている。
 さらに最近は、《『邪馬台国』も奈良盆地である》とする見解も織り込み、200年代の弥生時代の日本列島に『邪馬台国』という国の纏まりが生まれて以来、《奈良盆地に発生した勢力》が一貫して日本列島の勢力の中心であったする見解が、《定説》としての地歩を固めたように見える。

 しかし、こうした《定説》に疑問を持つ研究者は多い。
 1970年代には、民間の研究者の古田武彦さんが九州王朝史観を唱え、卑弥呼の『邪馬台国』が九州に生まれ、400年代に『倭の五王』の国となり、『九州王朝』へと成長したが、663年に白村江で唐と戦って敗れ、列島を代表する地位を『近畿王朝』に取って代わられた、と主張されている。


 しかし、古田さんが九州王朝論を唱えて40年以上経つが、《定説》を採る学者の皆さんは誰一人として九州王朝論に反論しないで、九州王朝論自体を無視するという態度に出ている。また私が、《九州に王朝が存在した直接証拠》であると考える歴史事実も無視して採り上げようとしない。  だから、『九州王朝』の語も、『神籠石』・『隅田鏡』・『九州年号』・『魏志倭人伝の短里』の語も教科書に載らないし、ほぼ十年毎に発刊される「日本の歴史」シリーズにも載らない。
 このような《定説》派の学者の皆さんの、《九州に王朝が存在した》とする根拠も、主張自体も無視するという《学問の姿勢》で、『古代の真実』を明らかに出来るとは思えない。
 『古代への扉』を開くために、九州王朝論は、もはや無視しては済まされない《学問のレベル》に達している。学者の皆さんが、《定説》を《定説》として維持していくためにも、九州王朝論は乗り越えねばならないハードルとなっているのである。
 これからこのホーム・ページに新しい視点からの説を展開して行きたく思うが、皆様にお読み頂き、徹底ご批判頂いて、『古代への扉』を開く一助として頂ければ幸いである。

たつの市 永井正範 





 考古学と古代史の研究者の間では
全長200m超の巨大古墳36基、150~200mの大古墳30基の中で、
奈良盆地の東南部にある桜井茶臼山・メスリ山・渋谷向山・行燈山・西殿塚・箸墓6基
発生期の古墳で最も古く、
この中で箸墓古墳が前方後円墳として定型化した最古の古墳である
との認識が≪定説≫となっており、箸墓が最古であるについて異を唱える研究者はいない。

 しかし、研究者は誰も、何故、箸墓が最古であるか?の根拠を説明しない。
 すなわち、根拠を示さない説が≪定説≫となっているのである。

 よって私は、この≪定説が誤っており、何故、誤っているか、何が真実か?を証明する。

 2016年1月、『筑紫古代文化研究会』で以上を発表する機会を頂き、今も続けている。
 ここで配布したレジメと資料を、メニュー 『前方後円墳のはなし』に載せる。